ただただ歩く。仕合わせの基準ってなんだろう?
昨日、岐阜からの帰り道。名古屋で途中下車して、一本の映画を観てきました。
「ラサへの歩き方 祈りの2400㎞」 という映画です。
以前に当店のお客さまシロさんから教えていただいていたものです。
チベットの小さな村から聖地であるラサ、そしてカイラス山へ。
はるか2400㎞を「五体投地」で祈りながら、一年をかけて歩いていく村人のチベット巡礼。
それを自分自身で演じた11人の村人たちのフィクションでもあり、ドキュメントでもある映画です。
映画のなかの一コマです。「五体投地」で祈りながら歩んでいきます。
チベットの村の人たちの生活をそのまま切り撮って記録したものです。
どなたにもお勧めできる映画ではないと思います。
娯楽性とかそう云うものとは無縁の、ただただ五体投地で祈りながら歩んでいくそのさまを記録したものですから、愉しくない方も多いかと思います。
五体投地、と云うのは両手・両足・額の五体を地面に投げ伏して祈り、そして進んでいく。
ただただ歩く。祈る。その連続。まるで、尺取り虫のようです。
とても、横丁の靴やには無理!なものです。
そして、その巡礼のなかで新しい生の誕生があり、静かな死が待っている。
怒らず感謝して、祈りとともに一日一日を終える。
そんな巡礼を宝物のように愛おしく続けていく。
う~んと考えてしまいます。
映画のなかには、スマホもランドクールーザーも出てきます。
まさに、今の現代のなかで行われている「ラサへの巡礼の旅」。
自分ためではなく、「他者のために祈る」と云うチベット仏教の考え方に、静かに強い共感を覚えました。
これをどう考えるか、ですね。
これは観られた方だけの「愉しみ」かなって思うのです。
豊かさがどうのなんて、云う気は全くありません。
ただ、地球上にはいろいろな人がいて、その価値観は違うと云う多様性をどうとらえるのかなってことです。
ひたむきな信仰心と美しい山々の映像に癒やされるところも大です。
橫丁の靴や的には、こころ洗われる時間でした。
先日出かけたブータンも同じチベット仏教。
ブータンのこども達。目の輝きがまぶしいくらいでした。
映画とは違いますが、同じような祈りの形式や考え方が脳裏に甦ってきます。
ひとの「仕合わせ」ってなに?
ちょっと立ち止まって考えてみることもいいのかなって思いました。
橫丁の靴やの独りよがりの映画評でした。